最近は、座禅について読んでいる
本の読み方が、昔と今でがらりと変わってしまうことは多いと思います
私の場合は、以前は小説が中心でしたが、最近は自己啓発系やビジネス系に偏っています
そんな私が、最近特に読んでいるのは座禅についての本です
例えば、以前の記事で紹介した「現代坐禅講義 只管打坐への道 (角川ソフィア文庫)」⇩を読んだのですが
この中にこのようなエピソードが紹介されていました
道元禅師も、真実の仏法を求めて船で中国に渡ったとき、年老いた典座に出会って、話を聞きたいので引き止めようとすると「これから修行だから帰らなくちゃいけない」と言うので、「修行というのは食事作りとかじゃなくて坐禅とか公案を参究することじゃないんですか」と聞きました。すると「ははは、きみは修行というものがわかっていない」と大笑いされたという話がありますね。
という一文
かなり有名なエピソードのようなのですが、寡聞にして私は知らないお話だったのです
ちなみに典座(てんぞ)とは禅宗において僧侶の食事を司る大事な役目です
道元はこの出会いに触発されたのかどうかは分かりませんが、他にも「典座教訓」という典座の役割や心構え、食材や食器の管理方法について書いています⇩
ビギナーズ 日本の思想 道元「典座教訓」 禅の食事と心 (角川ソフィア文庫)
それはともかく
そこで、ふと気づいたのは
そもそも私は、道元禅師についてほとんど知らない!?
という事実でした
道元禅師と言えば、曹洞宗の開祖であり、座禅の話をするときは外せない人物にも関わらずです
興味深いエピソードが好き
私は慌てて、彼に関する本で入門として相応しい物はないかと探し始めました
で、Kindleで⇩の本を見つけました
ちなみにKindle_Unlimitedで読み放題でした*1
そこには道元禅師と老典座のエピソードが詳しく描かれていました
ちなみに、このやり取りは作者により会話風にアレンジされています
道元「あなたは、それなりのお年なのですから、どうして坐禅したり古則公案(古人のさとりの言葉)を学んだりしないで、煩わしい食事係を引き受けて、一生懸命にお働きになるのですか? 何かよいことがあるのですか?」
典座は大笑いして言った。
典座「外国のお人よ、あなたは未だ弁道(修行)とは何かということが分かっていないようだ。文字(言葉)とは何かということもご存じないようですな。」
道元は突然、恥ずかしくなり、また驚いて、さらに質問した。
道元「それでは、言葉とはどういうことなのでしょうか?(如何是文字?)修行とはどういうことなのでしょうか?(如何是弁道?)」
典座「ん……。今、あなたが質問したところを間違わなかったら、あなたはすでに道を得た人なのですが……。」
道元は、典座のこの言葉の意味が全く分からなかった。
典座「もし、まだお分かりにならないのなら、後日、阿育王山においでなさい。その時に、言葉とは何か、修行とは何かということを考え合ってみましょう。日がくれてしまう。もう行かなくては。」 と云って、典座は足早に帰っていった。
エピソードからエッセンスを引き出す
後に道元禅師と老典座が再会し、言葉とはなにか、修行とはなにかを話し合う機会がありました
結論を分かりやすくまとめたであろう部分を以下に引用します
つまり、言葉に出しても実際は行わない、ということもある。そうであれば、言葉はただの言葉である。言葉は所詮言葉なのである。言葉を発してもそれは行ったことにはならない。 経典や語録を学ぶのも同じことで、学ぶことは確かに大切だが、そこには何が書かれているかというと、古人の踏み行った修行の様子や、実際の修行生活の中での言葉のやり取りが書かれている。学ぶことが修行なのではない。学んで、その言葉のもとにあるところの実践を実際に行うことが大切である。 典座の仕事に限らず、日々の実践が大切である。 典座は、そのことを教えているのである。
と同時に、経典や語録に示された言葉とは、単なる言葉ではあるが、古人の踏み行った修行の様子や、実際の修行生活の中での言葉のやり取りが示されているから、言葉のうえにも真実は、直ちに示されているのである。
言葉は言葉に過ぎないが、また、言葉の中に真理がある。
つまり、文字は文字に過ぎないが、そこに真理は表されている
大事なのは、その真理を実践することである
ということでしょうか
何事もそうですが、頭でっかちにならず、逆に経験を重視しすぎて学ぶことを忘れないこと、学んだことを実践することが大切なのですね!
おしまいに
どこかで、読書遍歴を森に例えた話を聞いた覚えがありますが
私の森に今、また一本の木が植えられた気がします
こうやって少しずつ、自分の中の森を育てていきたいですね!
ここまで読んで頂きありがとうございました!
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